荻窪の部屋

 結婚を期に夫婦で引っ越すことになり、新しい生活を想像しながら部屋を探した。最寄り駅と駅までの距離と家賃を伝え、検索システムから出てきた物件をいくつも見て回った。わかったことは、ほぼすべての物件がいくつかの小さな部屋と水回りの集合だということだった。
 当たり前のようであるが、住宅の空間構成は様式のようにみごとに標準化している。微差しかない住宅を前に新しい生活の想像を巡らすも、家具を置いたらあとは貧しい空間が残るだけだろうとしか思えず、希望がしぼんでいく感じがしてきた。そんなとき、良い生活を想像できる物件が見つかった。少し大きなワンルームである。

 なぜ住宅は標準化するのか。
 住宅というものは、寝たり食べたり料理する空間であって、それらの機能は明確に仕切られた各部屋におさまるものだ、という共通認識があって、そのうえで住宅は設計され、生産され、住まれている。だから、土地を分け、建物を建てたら住戸を分け、そのなかに部屋を分けることで、生活空間を生産するのだ、ということになっている。住宅とは機能が成り立つまで空間を小さく小さく分けたものになっている。
 だが、そんな細切れの部屋は人間の生活を本当に支えられているのか。生活とはそんなに単純なのか。

 生活とは、寝る、食べる、料理する、くつろぐ、持ち物をしまうといった、機能的活動の束である。ただしそれだけではなくて、家族の世界をつくって住むことであり、街に住むことである。人生をともにしてきた持ち物とともに生き、寝起きや食事を繰り返すなかで家族の時間を積み重ね、次第に街に定着していくことが生活ではないか。
 空間を小さく分けていっても、よい生活空間は生まれそうにない。そうであれば、空間にまとまりをもたせたり、重なりをもたせる設計をしてはどうか。

 まずはベッドを置いて寝るための場所をつくる。ベッドの高さは20cmで、74cmの棚に囲まれている。子供の大きな家族ならば壁で仕切る必要があるだろうが、私たちはこの程度の腰壁で問題ない。棚はベッドの外を向いていて、キッチンの収納にしている。

 つぎにテーブルと椅子をこの棚につけて置いて食事の場所をつくり、残りの場所を床座でくつろぐ場所にした。

 部屋の一面には持ち物を見せる棚を作った。とても大きいサイズにしたことで、部屋を釣ろく特徴づけている。もとからあった押入れは扉を外して布地を掛けた。
 買ったものは15枚のベニヤと12mの2×4材で、およそ25000円。

 こうしてできた部屋では、場所の重ねあわせが起こる。
 ベッドで寝ているとき、見上げた天井は窓際まで広くつながっていて、朝には外の光がなめてくる。テーブルで食事しているときは、ベッドの上のピンナップと、棚の本や飾り、育てているベランダの植物が見える。植物はときどき摘み取られて料理に加えられる。
 寝ているときも、食事するときも、そのとき使っていない空間まで場所の広がりに参加しているし、そのとき使っていない持ち物も場所に時間を感じさせるよう振舞う。重なりあい、まとまりをもった場所のなかで、毎日毎年繰り返えされる生活のリズムは繰り返され、広がっていく。

 今回意図したのは、生活空間において計画を考えなおし、場所を重ねあわせることだった。しかし場所の重ねあわせの手法は、住宅だけでなく他の空間設計にも有効に思える。
 場所を重ねあわせて計画することで、空間を実際にあるよりも多く利用することができる。特に都市において空間は有限であり、有限であるということは貴重な資源だといえる。有限の空間資源を取り合う私有合戦や、建物を高く大きく作る土地高度利用に代わる空間利用の方法になるだろう。
 もう一つ、場所の重なりが起こると世界の全体性が強くなる。例えば近所の家の前で鉢植えが育てられていたら、そこは住人の場所でもあるし、通り掛かる人の場所にもなっている。良い都市の広場のことは、住人も観光客も自分の場所だと思える。これらは場所の共有から生まれる人間の交流であり、社会が生産される一つの仕組みである。
 空間は切り分けることもできるが、重ねて使うこともできる。そして重ねて使ったところで減るようなものではなく、むしろ良さが増えるものである。